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源空寺とは |
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源空寺の開山は、道阿霊門上人と云い、天正18年(1590)湯島に草庵を結び、専修念仏の一行を励み、道俗を教化し、上人の徳を慕って多くの信者が集まった。就中、徳川家康の帰依が篤く、慶長9年(1604)湯島(現在湯島聖堂のある処)に寺領を賜わり堂宇を寄進され、寺は大いに栄えたのである。本尊は、津戸三郎尊願護持の法然上人御自作の像を尊願の子孫伏見勘解由より寄進されたもので、本尊が法然上人故、上人の御名「源空」をそのまま寺号とした。同山は、その後明暦の大火で焼失し、湯島の地は幕府の用地となり、現在の浅草の地へ移転、諸堂が再建されたが、その後も元禄(1688-1704)、安永(1772-81)の江戸の大火、関東大震災、昭和の戦災で焼失している。しかし、開創以来、人々の信仰を深く集めている源空寺は、随時再興されて今日に及んでいる。 |
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所在地: |
台東区東上野6-19-2 |
電話: |
03-3844-1131 |
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幡随院長兵衛 |
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幡随院と言えば長兵衛と言われるよおに、講談や芝居などで知られていますが、詳細は、ハッキリしていないようです。
父は肥前の国唐津藩の藩士でしたが同輩と争い、これを斬り捨てた後上野国相生に迄落ちのび、ここで伊太郎を男手一つで育てました。
伊太郎が後の長兵衛です。
伊太郎が13歳の時、庄屋の子と喧嘩をして私刑にあったのを恥じ、父伊織は切腹し、伊太郎は江戸に出て花川戸に住み、やがて旗本に子普請用人を世話する割元業すなわち口入れ屋となり、後に江戸奴の親分として旗本大小神紙組と対抗し、ついにその長であった水野十郎左右衛門に無礼討されたといわれています。(1654)長兵衛を無礼討ちにした水野十郎左右衛門は成之といい、 水野成貞の長子で父の遺領三千石を継いで将軍徳川家に仕えましたが、出仕怠りがちな上に、市中に出て長兵衛を殺すなど治安を乱すような行為がありましたので、寛文4年(1664)評定所で取り調べの上死刑に処せられました。
尚、幡随院の謂われは、現在の東京都台東区東上野に幡随院と言う寺院が有り長兵衛との関わりが深く幡随院の長兵衛と言われていましたが、関東大震災で焼失し、移転をしてしまい幡随院を相続したのが源空寺です。
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伊能忠敬 |
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忠敬は延享2年(1745)上総の国に生まれ、十八歳の時千葉県佐原村の伊能家の養子となり、隠居(50歳)後は江戸に出て暦学を学ぶため、幕府の歴局天文方高橋至時の弟子となり、西洋の暦学の理論と天体観測を学びました。
又、忠敬は日本全国の地理の作成を志し、至時の助けをかり蝦夷地の測量を行うなど、十七年間に渡り約三万五千キロを歩き、文政元年七十四歳で没する前年まで測量を続けました。
後に1861年、日本の沿岸測量に来たイギリスの測量船隊がこれを見て、その正確さに驚きました。
忠敬は至時を心から尊敬し「私が大事を成し遂げることの出来たのは、全く至時先生のおかげである。どうか先生のそばに葬ってもらいたい。」と遺言を残し至時の傍らに葬られました。
当寺には忠敬の地図がありましたが、大正12年の大震災で焼失してしまいました。
尚、源空寺では12月31日の大晦日に、徳川家光寄進の銅賞で先着順に除夜の鐘が叩けます。 |
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